「私たちは理性の危機に立っている」
Frank Schirrmacherは最も重要なドイツの思索家の一人だ。経済危機は不断の脅威の状態を齎したと彼は語る。それでも希望はあると。
Schirrmacherさん、ユーロ危機は過渡的な問題ではなく、それ以上のことだとあなたは書かれていますが、どういうことなのでしょうか?
危機は非常に根源的な何かの表現です。 以前は経済学は合理的なシステムよりも、肯定的な経済を売り物にしてきましたが、危機が訪れ、ますますはっきりしてきました。 これは最早、経済の危機ではなく、合理性の危機なのです。 私たちは理性の危機を迎えています。 それは、私たちが突然、物理学のシステムが機能しないことに気づいたようなものです。 何が道徳的で、何がそうでないかという問いに答えるのに窮するということは私たちの最大の問題ではありません。 もっと深刻なのは何が理性的で何がそうでないかが分からなくなっていることです。「思考の建物が全壊した」と言ったのはどこかの社説などではなく、Alan Greenspanです。
我々は大崩壊の時代に生きているということですか?
私たちは絶対的な脅威に絶え間なく取り巻かれています。 ユーロ終焉の脅威、経済崩壊の脅威がテーマになる頻度は、80年代や90年代には考えられなかったほど高くなっています。
その結果は?
この考えはひとつの文に行き着きます。誰もが知っている「他の選択肢が無い」というものです。 これは更なる合理化という意味になります。 経済危機の勃発以来、「金融核溶融」から「証券市場の大量殺戮兵器」まで核の暗喩が溢れていることは偶然ではありません。そこですぐ思いつくのが冷戦のモデルです。
我々は冷戦のニューヴァージョンを生きているということですか?
冷戦下では世界史上初めての絶対的な脅威がありました。 この脅威はある認識と結びついていました。 すなわち、我々は敵を破壊することが出来る、しかし、敵が我々を破壊する可能性も何時でもあるというものです。 投資銀行Lehmanリーマンの内部Eメールを見てみると、冷戦の思考図式を強く思い出します。 銀行家たちは「我々に何か起こるはずが無い。何か起きれば他も破壊されてしまうからだ。」と考えていた。 ギリシャとキプロス救済でも絶対的な脅威がその場にあった。 そこに、ブリュッセルから知らせが届く「君たちが協力しなければ、我々もみんな沈む」。 そのような位置関係もしかし、問題があります。 それは民主主義を弱くするからです。
何故ですか?
ユーロ危機は大幅な脱民主化とかなりの主権喪失と結びついています。 わが国ドイツでは、議会が行き過ぎを犯さないように憲法裁判所が度々介入せざるを得ないことが起きています。 または、ギリシャの前首相のユーロ救済案を国民投票にかけるという提案に対する否定的な反応を考えてください。
スイス国民は最近、国民投票で、お手盛りぼったくりに対する対策を承認していますが。
それは私の説と矛盾するものではありません。
経済エリートに対する民主的、論理的な蜂起はあなたの言われることの正反対の説です。あなたは第一に、深い理性の危機に陥っている社会と、第二に、そこに巣食う利己主義者の群れについて話されていますが。
何の矛盾もありません。 私の画く事が終着点なら、それは非常に悪いことですが。 社会というのは弁証法的に動くものです。 後から習うのです。 そして次に、マネージャーたちの年収が馬鹿げた額になると、アレルギーのように反応するのです。 私はスイスでの議論を非常に歓迎します、それは私たちがこれまで長年、無駄な時間を費やしてきた純道徳論議から離れた議論がされているからです。
説明してください。
「あいつらは稼ぎすぎだ、あの豚ども」と言うことはカッコよいですが、このような感情的な侮蔑は何の役にも立ったことがありません。 スイスでの反応は違います、論理的です。 そして、私の説と矛盾するところはなく、次の一歩を示しています。 私たちは知性の危機を通して、これまで確信されていたことに疑問が呈され、次の確信が力を集めていることは至るところで体験することです。
スイスでの国民投票は希望の光、理性の危機が乗り越えられる兆しだと思いますか?
はい、でもスイスには直接投票の伝統があり、ドイツにはないということを考慮する必要があります。 ドイツでは危険なやり方です。 ユーロについての国民投票をやって何が出てくるかは誰も知りません。 議会の意見がもっと反映されることになれば充分だと思っています。 もうひとつ権利について言いたい事があります。
どうぞ。
ネオリベラリズムの最大の興味は人々の好みです。 この人は今日、アイスクリームを食べたいと思っているか? 明日は? 目的は好みを作り出すことです。 好みを先取りして好みを満足させることです。 美味しければ良いということになるとしかし、危険なことになります。 好みにあっていない場合は権利が絶対的なものではないと見られるからです。 その場合、特定の権利、平等、自決権などが、誰もそれを望まなくても守られることが重要です。 ユーロ危機は私たちを危ない道に導きました。 その点では私も連邦政府を非難します。 この奇妙な、大げさなスイスへの対応は、自分たちの道徳的な足元がおぼつかなくなると、他者をもっと反道徳者にしようとするということを示しています。
あなたはメルケルさんを最上級ゲーム理論家と形容しましたが、どういう意味ですか?
この物理学者はいくつかのゲーム理論原理を考えています。 第一は「あいつはお前を引っ掛けようとしている」、第二は「黙れ、言質を取られるな」、第三は「ゲームは徹頭徹尾ハッタリで行け」。
しかし、彼女はドイツをある程度無傷でユーロ危機を乗り切らせているのでは?
もしポーカーテーブルの真ん中のチップだけを見れば、メルケルは悪くないと見えます。 制度は堅牢です。 我々ドイツ人は大金をテーブル上に投げましたが、破産はしませんでした。 他の角度から見るとしかし、メルケルの戦略のコストは巨大です。 ドイツは払い、払い、払いました、そして憎まれています。 私たちは再びナチスとして罵られています。
どうしてそうなるんですか?
この逆説は、本当のことを言わないからだと説明できます。 自らの選挙民を慮ってメルケルは全てがどんな目的を持っているがを言い損ねているのです。 私の考えでは、正直に理想の世界を作りたいからと言うのが正しいと思います。 すなわち、「お金はなくなりましたが、その代わり良いものを貰います。強いヨーロッパです。」
世界が、何よりも利己的興味が幅を利かせる経済主義の時代にあると思いますか。 すなわち、現代の人間は以前よりも悪くなったと?
いいえ、そうではありません。人間はまだ直感というものを持っています。 これが何が良くて何が悪いかを示してくれます。 私は現在の社会に利己主義者が増えているとは思いません。 しかし、社会は新しい命令形を持っているのです。 それは論理的で利己的であれというものです。 あなたが自分で「私たちは利己主義者だ」と言う場合とは全く違います。 あるいは、「利己的であることは知性的である」という格言を作ったとして、そのような格言は哲学史的に見て、一つの断絶です。 それは、ヨーロッパ人の私たちにはイマヌエル・カントの次の文が強く刻印されているからです。 「お前の行動が全ての者の法律になり得るように、常に行動せよ。」
新しい指標文がThomas Hobbesから採られたようですが...?
ええ、「人間は人間にとって狼である」ですね。 ある社会で例えば、利己的な態度が論理的だと宣言されると、その考えが人々の中で呼び覚まされるということが研究で知られています。 «homo oeconomicus»という典型の中では反社会病質の人が増えます。 今日、人々は自分でも良くないと思っている態度をとることを要求されます。
では、やっぱり人間は悪くなっている?
いいえ、何が起こっているかに気づく限り、人間は悪くなりません。 高すぎる経営者の報酬に反対するスイスの国民投票は、人々がこのまま先に行くことはできないことに気がついたということを示しています。そして、行動しました。 人間は典型が示すよりも多層的です。 問題は私たちがますます厳しくなる人間を自動機械に見立てる制度に晒されていることです、私たち自らの好みで。
そこで、どんな提案をされますか?
人間に自分の直感をまじめに捉えるように伝えなければなりません。 問題は私たちが大きすぎるリスクに飛び込むことではなく、逆に全てをリスク無しでやろうとすることです。 そこで、私たちは統計の超精密なモデルを頼ることになります。 金融危機はリスク予防策を怠ったために起こったのではなく、逆にそのようなリスク予防法は世に溢れています。 間違いは、それを信じ切り、直感に耳を貸さなかったことです。
我々は意識的にリスクに飛び込み、それを耐えることを学ばなければならないということでしょうか?
そうです。そこには透明性、実直性そして自信がなければなりません。 私たちの課題は思い込みを忘れることです。 消費、市場またはインターネット、どれにも反対ではありません、それらに私たちが操られていない限りですが。