以下の文は2015年07月01日にオーストリアのジャーナリスト、著作家で、緑の党のヨーロッパ議会議員でもあるMichel Reimonがギリシャの国民投票結果を受けて自らの
ブログサイトに発表した分析を直訳したものです。
OXI: ネオリベラリズムの道への反対
ギリシャの国民投票の結果、カードが新たにシャッフルされた: シリツァとその反緊縮コースはしっかりと鞍に跨った。 世論調査は選挙が行われる場合には彼らが絶対多数を得ることを示している。 これまでの交渉にはドイツ財務相Schäuble、EU委員会総裁Juncker、ユーログループ代表Dijsselbloemを取り巻く交渉者たちはツィプラスとヴァルファキスがいつかは折れてくるという前提であたっていたが、この新事態にあたって立場を変えるかどうかの決定を迫られている: すなわち、妥協の用意があるか、または、破局に至ることを許容するかどうかを。 この問いは答えられないし、予想することも難しい。
賢明なのは勿論、妥協だが、特にドイツのネオリベラル勢力には難しい選択肢だ。
ギリシャが行わなければならない措置についての合意は比較的簡単だ: 税制とその管理は近代化されなければならない、しかし、時間がかかる。 贈収賄問題も同様だ。 国防予算の削減にはNATOの反対が出ることは確かだが、これも行われなければならないことだ。 しかし、これらの措置だけでは十分ではない、そして時間がかかり過ぎる。 その他のことについては基本的な立場が大きく異なるが、それについての三つのコメント。
第一: 政治的目標は何か?
メタファーを使って説明してみます。 ナショナルチームの監督20人がトレーニング法について話し合うためにミーティングを行うとします。 19人は耐久トレーニングと減量を推奨するが、1人は筋肉トレーニングと体重増加を主張する。 どういうことかというと、19人はマラソン競技について話しているが、20人目は重量挙げで勝つことを目標としているということだ。 これでは当然、うまく行かない。
ここではギリシャだけではなく、なによりもドイツで行われている議論を理解する必要がある。 ドイツの政治家とジャーナリズムはいつの間にかUSアメリカのメディアでさえ頭を傾げるほど過激に市場原理主義的で非妥協的になってしまった。
Florian Schuiは彼の本„Austerität“「緊縮」で例えば次のように説明する。 これはドイツでは自己イメージと国の誇りの問題だが、そうは呼ばれない。 20世紀前半にドイツは二つの大戦を失い、歴史上最大の民族抹殺をおこない、ナチスは更に自らの文化を汚した。 そこには国の誇りと呼ぶことを許されるものは無かった。 そこで人々は経済に飛びついた。 ドイツ技術者の功績、ドイツ工業製品、自動車から発電所までが間もなく全世界で再び人気を得る事になる。 輸出は、自立した価値であり、政治にも文化にも関係ない、純粋に経済的な、いわばイデオロギーフリーなドイツ人の新しい誇りの源となった。 更に、この国民の誇りはひとつの数字で図ることができる、すなわち国際収支で。 世界のどの国でもこの数字がドイツほど重要視されることは無いが、それも道理で、この数字は全世界の合計では0になるはずで、どの国もそれを決めることはできない。 たとえば、USAの自己イメージにとってこの数字は殆ど意味を持たない。
ドイツでは国際収支の赤字は災害として扱われる。 黒字が縮小しただけでメディアと政治団体は問題が起きたと捉える。 この視点は近年、全EUの政府に広がって来て、2008年の危機以来、これに異論を唱えることはほぼ許されなくなり、危機政治、安定化協約、自由化そして自由貿易協定の基礎となった。
ツィプラスとヴァルファキスはこの目標を共有しない。 彼らはその反対だ。 多くの、何よりもヨーロッパ外の経済専門家は国際収支の大きすぎる黒字は有害だと唱えている。 それは他の国にしわ寄せされ、それらの国は社会的危機を回避しようとして、自国の経済と国内需要を強化しようとする。 それは他国の交渉者の目には全く意味が無いように見え、目標とは正反対の提案をすることになる。
第二: 道
目標が食い違っていれば当然、違った道を行くことになる。 ギリシャは社会制度と年金を更に切り詰めようとはせず、労働市場をさらに自由化しようとはせず、賃金をさらに引き下げようとはしない。
自らがこのような措置を取る他国にとってはこれらはすべて正しい道だ: 90年代以来、殆ど爆発的な増え方をしているドイツの輸出超過の原因としては製品の品質は部分的なものでしかない、政治的な枠組みが大きな原因だ。 ドイツの労働コストは、競争力の名前の下での計画的改革、自由化、社会国家の解体によりかなり前から下がり続けている。 これらは事実上、抵抗無しにメディアの拍手の中で実行されてきた。 ヨーロッパの他の国ではこれほどあからさまではないが、方向は同じで、輸出超過は大きくなっている。 競争力強化の名前の下でしかし、北欧やオーストリアでさえも国民への恩恵は減り続けている。 これは国内需要を弱め、輸出経済がさらに重要性を増すことになる。 この自己増殖する効果は多くの影響を持ってくる。 ヨーロッパ労働組合の上層部は、社会民主勢力はもともとだが、この流れに乗っている。 彼らは、ますます豊かになるヨーロッパは、国際市場で生き残れないという理由でその超過分を再配分することはできないという物語を受け入れる。 花開く輸出経済のなかでの悪い仕事でも仕事が無いよりもましだという説を受け入れる。 改革の実質的な部品は常に、被雇用者同士の競争を厳しくして、企業側の交渉立場を強める雇用改革だ。 実質賃金は下がり、社会的セーフティーネットは穴だらけになる。
ここまで、これが何処に導いていくか広範に指摘してきた: 住民の大きな部分が危険な状況に滑り落ちても、状況を社会的出世が可能になるように改善することは無理だと見越して、逆に分配闘争は下に向かって広がる、すなわち移民たちに対して。
第三: 思想
輸出超過に拘ることにはひとつの利点がある: 数字は不思議なことにイデオロギーフリー効果がある。 政治についてではなく、客観的なデータについて話しているような印象を与える。 論戦を戦わせる人は醒めた、ほとんど科学的な経済に従っているように振舞うが、それは間違いだ。 若しそれが本当ならば、彼らは経済学者の意見を聞こうとするだろう。
論争者の行為は事実上、高度に政治的だ。 貿易収支はある意図のための道具だ: その意図は「市場適合民主主義」だ。 ヨーロッパの政府は、保守か社会民主かにかかわらず、全ての社会交渉は市場で行われるべきで、国家はその交渉が無事に行われるために安全にだけ気を配ればよいという、この意図を認めている。 そのために、抗議活動の監視と制限に関する場合以外はますます少ない政府、少ない管理、少ない(民主)政治が求められる。 これがネオリベラル夜警国家だ。
これらの理由からギリシャの国民投票はこれらの政府にとっては無礼な行為だ: 社会交渉が市場ではなく、国民投票によって結果が出されることは、この思想の根本に矛盾するからだ。 まさにそのために国民投票は重要だ。 ギリシャ政府の抵抗もそのために非常に重要で、我々の100%の連帯を受けるべきだ。 当然、このように複雑なパッケージでは多くのことを批判することができる。 ツィプラスは、彼が全てを正しく行うとする白紙信任を必要としてはいないし要求することもしない。 しかし、彼は正しい戦いをしており、他の国が政府が進路を変えることを迫っている中でも支持を受けている。
これからどうなるかは想像も出来ない。明日、何が起きるかを予想することもできない。 幸運にも、私はもうジャーナリストではなく、コラムを埋める義務も無い。