以下の文は2015年05月01日に向けて雑誌オンライン版SPIEGEL-ONLINEに掲載されたGeorg Diezのコラム記事を直訳したものです。Georg Diezはベルリン在住のジャーナリスト、著作家で、Beatles及びRolling Stones読本の作者として知られている。
5月1日は歴史誤謬のひとつだ。祝うべき日ではないという意味ではなく、働くものたちの労働を少なくするという目標が間違いであり、事の成り行きによって別の意味を持つことになったということだ。
やるべき仕事の規則を決めるというよりも、近い将来に仕事がそもそもあるのか、もしあるとすれば、どんな仕事があり、それが何を意味するのかに考えを致すことが大事になってきている。
我々はこの祝日がその中で生まれた論理である産業革命の只中に生きているのではなく、人間を労働力として、そしてそもそも人間を余分なものとするのではないかという機械の未来像を見ながら生きている。
我々は既に次の革命のなかに生きている、人間の意義と目的を19世紀とは全く違い、強く存在に関わる問いを投げかける人工知性という革命のなかに。
我々は人間の生活の条件を劇的に変え、人類後の時代が現実感を持つであろう気候変動という現実と共に生きている。
我々は、資本主義の社会分断力が新しいデジタルシステムによる監視手段を魔法の弾圧道具として持つ民主主義後の監視社会に生きている。
我々は、場合によっては全てがひとつのゲームにかけられる-そして、5月1日がかなり矛盾したやり方で、正確にこの断絶を印すまたはこの断絶を認めることを拒否する、未来の入り口に立っている。
ひとつの過去の祭りであり、資本主義の本性を変えることはなかった歴史的な見せかけの勝利の祭り、世界が沈んで行く今、偏狭な保身の戦いにかまける労働組合がその存続を100年前の戦いに感謝して良い気持ちになる儀式だ。
これは、人道的にしろ、この日にシャーマニズムの習慣のようにふるわれる暴力にせよ、5月1日の空疎な象徴性と我々の生活を震撼させる本当の震動の間に生まれる葛藤を認識することに深い理由があるかもしれない伝統行事だ。自らの無力に逆らっての殺到だ。
すなわち、これが、年に一度、無政府状態を許し、その代わり一年の残りは厳しい秩序を構造的に安定的にする力の論理、この祝日の抑圧的な論理だ。
では、何故5月1日にこの怒り?どうして他の日ではないのか? 怒りが理由とすれば、毎日が5月1日であるはずだ。この奇妙に儀式化された暴力は一日だけ許されるゲームのように見える。
しかし、暴力は伝統行事になることで、無害に、予見可能になる。これが権力の望むことだ。人差し指が指す方向はひとつだけになる、車が燃えてガラスが割れる方向だ。
これは、この一日に憑かれたように行われる暴力は史上最も自由に許された暴力のようだが、怒りを満足させたい人に開けられ、食べ放題にさせる一種のパイロのピクニックバスケットだ。
構造的な暴力は出来事を成り行きよりも単純に表現することを学んだ記者の報告によって眼前の暴力に覆われ、ほとんど見えなくなる。
退職が決まっているGuardianの編集長Alan Rusbridgerは、現在の最大の物語、気候変動の報道でジャーナリズムが失敗したことを印象的に確認した。
何かが起こり、しかし、それで何かが変わることではなく、それを報道できることへの大きな欲求があらゆる方面にある。それはまるで、出来事と画像、持ち時間の決められた論争への人類学的に証明できる衝動のように見える。 これが5月1日の意義であり、笑うべきことだ。
ともあれ、この日を有意義に使うことも当然できる。ベルリンのデモ行進のコースはGerhart-Hauptmann-Schule(学校)の前を通るが、それは現在最も緊急な人道問題、社会が難民問題とどう向き合うか、地中海での大量殺戮に如何に対処するかについての思いをうかばせる。 また、Alexanderplatz(広場)では「Anything to say?」運動 が始まり、人々がベンチで、Julian Assange, Edward SnowdenとChelsea Manningのために、表現の自由のために、権力のデジタル監視政体に対する抵抗に 無言の示威行動をする。
別の言い方では、戦いは頻繁に、切迫したものに、そしてより存続に関わるものになる。毎日が5月1日になる。