受難の金曜日 復活の日曜日 休日 祝日 人類の救い主 春の女神 過ぎ越しの祭り 種無しパン 聖週間 三日祈祷、磔刑 棕櫚の日曜日 Diavolata エルサレム 復活祭の意味とヨーロッパ各地での行事についての考察 行事 音楽 料理
キリスト教最大の行事、復活祭の案内です。 まず、世俗的、表面的なことですが、カトリックの地域では受難の金曜日は休日ではありませんが、プロテスタントの地域では概ね休日です。カトリック圏では一年で最も一生懸命働く日だと言われます。 カトリック教徒はキリストが処刑されたという事実に耐え切れず、それを考えないようにするために仕事に精を出すのだ、と言う人もいます。 復活祭の日曜日と続く月曜日はどこでも祝日になっています。
復活祭は一義的には人類の救い主であるイエス・キリストの受難を偲び、復活を祝う祭りです。キリスト教の核心はイエスがその死によって人類のすべての罪を償ったということにあると思いますが、 私の見るところでは、そのイエスが本当に人類を救うに足りる者だったということを証明するのが復活の事実である ということだと思います。 ですから、 この復活祭はまさにキリスト教の生命線を担っていることになります。
しかし、 この行事も他の永い歴史を持つ行事と同じように一枚岩ではありません。 例えば、 復活祭のことをドイツ語で Ostern といいますが、 この言葉は古ゲルマン人の春の女神の名前Ostara から来ています。キリストの受難が春であったという確たる証拠はありませんし、各地の復活祭をご覧になればお分かりになると思いますが、 祭りの起源はキリスト教よりも古く、 おそらくユダヤ教の祭りも本当の起源では無いと思います。 宗教に関係なく、待ち焦がれた春の訪れはどの民族にとってもお祭りをするのに十分な理由だったことと思われます。
この祭りを形作っているのはしかし、キリスト教とキリスト教以前の要素だけではありません、 後世の世俗的な要素、むしろ迷信といって良い様なものもこの祭りに溶けこんでいます。スペインや南部イタリアの復活祭を見て頂ければ分かると思いますが、 首を傾げるような、 またはギョッとするような事がみられます。 この行事の直接の出所である「過ぎ越しの祭り」はユダヤ人の主な祭りで、 エジプトで奴隷となっていたユダヤ人が脱出した故事を記念するものです。 この祭りはまた 「種無しパン(すなわち無発酵のパン)の祭り」とも呼ばれます。
キリスト教信者にとって過ぎ越しの祭りにあたる祭りはすなわち復活祭で、おそらく年間の教会行事の中で最も重要なものです。ここでは、人類の罪を贖うために磔にされて死んだ後に復活した神の子、ナザレのイエスが祝賀されます。聖週間の間は宗教行列や徹夜の祈りなどが行われ、 キリストの受難のなかでも最も痛ましい時期がしのばれます。 復活祭の三日祈祷の儀式の中ではキリストの裁判、磔刑、死、復活が跡付けられます。 復活祭の日曜日の一週間前の日は「棕櫚の日曜日」と呼ばれ、 オリーヴの枝が祝別され、荘厳な鐘の響きの中でイエスがエルサレムに凱旋のように入市した故事が祝われます。
イタリアの多くの所では聖金曜日または復活祭の日に扮装した人達や復活したキリストの像を使った行事が行われ、 その非常に暗示的な祝事は多くの場合キリスト教的な要素と世俗的な要素がないまぜになっています。 たとえば、パレルモやカターニアの郡部で行われる Diavolata(悪魔事)などがその例です。その行事では、 天国と地獄の力の衝突が、復活したイエスが聖母と再会するのを妨げる悪魔達によって表現されます。
聖金曜日の夜、ローマではイエスが十字架を背負い、処刑されることになるゴルゴタの丘まで歩いた道筋を模した、古代ローマ遺跡の集まる地域のコースをローマ法王を先頭に歩く行列が行われ、コロセウムで大衆ミサが行われます。今では世界中から数万の人が集まるイヴェントになっており、市内交通は全面的に停止されます。
復活祭は毎年異なった日付にあたり、 その時期によって高い、または低いと定義されます。 規則では復活祭(過ぎ越しの祭り)は春の最初の満月の次の日曜日となっています。 基準の地としてエルサレムの子午線が使われます。
なお、上記の日付は西方キリスト教会のもので、ギリシャやスラブ圏のいわゆるキリスト正教では日付が異なります。