1992年9月2日に初めてエレキ音楽の音がチューリヒの道々に響いた時はわずか千人程が居合わせただけだったが、2001年にはその数にはゼロの数が三つ増えていた。 20年前、数学学生Marek Krynskiが当時、唯一の同種のイヴェントだったベルリンのLoveparadeをスイスでも開くことができないかと考えたのが始まりだった。 当時の警察への開催許可申請には「愛と平和、自由と寛大そして許容のためのデモンストレーション」と書かれてあったが、この申請は許可され、当時珍しかったエレキ音楽のファンが千から二千人が目抜きのショッピング通りBahnhofstrasseに集まり、音楽に合わせて踊った。今ではチューリヒの顔といえる通りだけではなく、チューリヒ湖をぐるりと取り巻く全域がイヴェントの会場となる。 数え切れないイヴェントをリードするのはスイス及び世界から集まる最高のDJ達で、ダンスファンのハートを焚きつける。 創始当時から最も変わったのは音楽のスタイルだと現在の代表メンバーStefan Epliは言う、当時まだ若い分野だった電気音楽は技術的にも音楽的にも進歩の可能性が大きく、今、ミュージシャンが手にしている表現可能性は最初の年代が想像することもできなかったものだ。 このイヴェントのために設営される舞台も技術的な進歩は目を見張るほどのもので、輸送法から構造安定性まで、当時の踊り手たちが揺れる舞台から落ちないように冷や汗をかいていたことなど今では想像もできなくなっている。 この20年間にパレードのコースは二度変更された、一度目はBahnhofstrasseがコースから外され、二度目は進行方向が逆にされた。 何れも大音響の夜のチューリヒへの負荷を軽減しようという目的だった。 最初のころは無いに等しかった安全対策コンセプトも度々変更されたが、2010年にDuisburgでのLoveparadeで多数の死者を含む犠牲者をだした集団パニック事故は、チューリヒにとっても安全対策を考え直す契機となった。 特に二万ボルトの電流が流れる場所もあることから、雨天対策は重要で常にプロフェッシオナル化が進められてきた。 しかし、Streetparadeが毎年同じ場所で開催されることは安全対策上の有利な条件だ。 毎年、開催許可を検討するチューリヒ市警察とも安全対策コンセプトが話し合わされている。 規模が大きくなる分、安全対策は難しくなるが、警察も不許可にする選択肢は考えていないとしている。 創始20年を過ぎて重要な年中行事として定着しているということが伺える。 警察やチューリヒ市にとっての負担は小さくなく、主催者側と喧嘩腰での交渉となることも稀ではないと言われるが、チューリヒ市の執行部も参加者たちの活気と生の喜びにはじっとしていられないとの思いを表明している。
13.03.2007
17,050円